青春時代の忘れ物を取りにきた旅。
高校二年の修学旅行先は京都であった。
修学旅行と言えば全員でぞろぞとありきたりの観光名所を一通り廻るわけだけれど、小グループで自主的に行動する自由時間も設けられていた。
インターネットも無ければ気の利いた観光ガイド本も揃って無かった時代である。
そんな中、意識高い系の友人Gがどこでどう調べたのか「哲学の道」と「イノダコーヒ」は絶対に譲れないとなって基本コースが組まれた。
進学校であったことも災いしてか更に調子に乗って「京都大学見学」などもコースに組まれていった。
このあたりから何か違うなと思い始めた意識高くない系の私と数人で結果的に別行動をしたと記憶している。
ただ意識高くない系がはたしてどこをどう彷徨ったのか、今では全く記憶がない。
夜ホテルに戻ると、待ち構えていたかのように友人Gが目を輝かせながらイノダコーヒの印象を語り始めたのであった。
「先ず、イノダコーヒは確かに存在した。」
勝ち誇ったかのようで言葉に力量が感じられた。
「次に、有無を言わせずコーヒーに砂糖とミルクが入れられていた。」
この時下を向いて少し残念そうに見えた。
そして数秒おいて再び顔を上げこう付け加えた。
「しかしその分量が絶妙であり文句の付けようがなかった。」
この瞬間、取り返しのつかないことをしてしまったのではないかと自責の念に駆られた。
それから数十年、私の住む東京にもイノダコーヒはあるけれど、あくまで私が忘れ物をしたのは「京都本店の旧館」なのである。
今回、実際に注文すると、砂糖とミルクは入れるかどうか聞かれる。
砂糖は沈んでるので、お好みでかき混ぜるように言われる。
確かにその分量は文句のつけようはなかった。
砂糖とミルクが最初から入るのは、昔はコーヒーが贅沢品でゆっくりと味わうものだったため、
コーヒーが冷めてから砂糖を入れようとするとうまく溶けずに風味が損なわれるからという
京都ならではのおもてなしの心だと言われているらしい。